先週、ツイッターにあふれた「わたしを作った児童文学」というタグ。
書籍に関するタグは今までもたくさんあったけれど、今回は人気ユーチューバーが取り上げたとかで、その広がりと量が、今までの本に関するタグつけとはちょっと勢いが違った。
その中で、「ん?」と思う本の名が挙がってて。・・・・・「それって、児童文学なん?」と考えたのは、私だけではなかったようで。
つまるところ、素子さんの作品が結構あがってたんですよ。「星へ行く船」とか「ひとめあなたに・・・・・」とか「グリーン・レクイエム」とか、ね。「あなたにここにいて欲しい」まで挙がってていて、マジすか? ですよ(^_^.)
ラノベとして取り上げられるのも「ちょっとさぁ…」って思っていたわけですから、児童書って、そんなあーた。
ツイッターで、思うところを書こうかとも思いましたが、文字数足りないのでこちらに書こうと思います。(一瞬あげたの、ツイッターに。でもすぐ消した)
私にとって(そしてサイン会に集まるような素子さんファンにとって)、素子さんはSF作家であり素子姫であり、練馬の住人(なんじゃ、そりゃ?)なわけですよ。ラノベ作家でも、児童文学者でもない。これはもう、明白。
でも、この間読んだ「読書から始まる」(長田弘・ちくま文庫)に書かれた「子どもの本」の定義で言うと、素子さんの各作品はまさに「子どもの本」なんです。この間の記事(
金曜の夜から、たっぷり読んじゃいました)にも書いたのですが、「子どもの本というものは、子どものための本なのではありません。大人になってゆくために必要な本のこと」だと、長田さんは言います。
そして、子どもの本になくてはならない三つのものとして、次のことがらを挙げています。
一つは、「古くて歳とったもの」。古くて歳をとった人、あるいは、古くて年月を経ているもの。
二つ目は、「小さいもの」です。幼いものといってもいいですが、幼い生き物、あるいは、幼い人。小さい植物、あるいは、小さい玩具や道具など。
三つめは、「大切なもの」です。みずから生きる者にとって、あるいは、共に生きてゆくものにとって、そして、わたしたちの日々にとって何が大切かを語るもの。
「読書から始まる」(ちくま文庫p.105)
ほら、素子さんファンの皆さま。ファンじゃなくても、読んだことのある皆さま。あの作品も、この作品も、この三つ、素子さんの言葉でしっかり語られていますよね。
古くて歳とったもの。「
・・・・・絶句」の、タイレニイ、「
グリーン・レクイエム」の宇宙樹。そこまで古くなくても、大人で、小さきもの、幼きものを守りみちびく存在の人々がいつもちゃんと、物語に存在します。
小さいもの。素子さんが若いうちは、主人公がまさにそれでしたよね。あゆみちゃんしかり、登場人物の新井素子しかり。
年取って年齢を重ねてからも・・・小さいものとしての主人公、もしくは主要登場人物がちゃんと、物語に存在していますよね。
そして、大切なもの。「
あたし・・・・・・あたしが好きなんだからねっ!」「・・・・・絶句」の登場人物の方の新井素子のセリフです。
「大人になってゆくために必要な本」「そうした本であるべき子どもの本にとってもっとものぞまれるべき読者がいるとすれば、それは大人であり、子どもの本を読むことによって、それまでは自分でも気づかなかったけれども、ふりかえって今、子どもたちに伝えたいものが何かを、とくにそうと意識しなくても、大人たちはきっと自分で、自分の中に確かめるようになる。」(同p.101)
子どもたちに伝えたい何かを確かめる。それがあふれる本。そう考えると、素子さんの本は、きっちり「子どもの本」だと、凄く得心したのです。
「わたしを作った児童文学」の中に、素子さんの作品が入る違和感が完全になくなったわけではありません。そもそも児童文学と子どもの本は、必ずしもイコールではないと思うし。でも、子どもが大人になってゆくために必要な本、子どもに伝えたいなにかを確かめられる本として素子さんの作品群を捉えるならば、それらの本が「わたしを作った児童文学」だとツイートされるのは、嬉しいことなのだろう、と思えるようになったのは確かです。小学生はともかく、中学生高校生には、ぜひとも読んでもらいたいと思うし。
しかし、子どもの頃(小6まで)に読んだ本・・・っていう定義なら、私の場合、素子さんの作品は絶対入らないけれどね。
だってその時まだ・・・素子さん、デビューしてなかったもん!!
(歳が、バレる…)